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日本をよくする一歩 国を憂う政治

この国を憂い、反日勢力を排除する政治。

在日朝鮮・朝鮮人による事件史1

朝鮮人 移民

過去に朝鮮人が起こしてきた事件1


大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

■ 生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越黒井駅ヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅ヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

■ 坂町事件(1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に朝鮮人体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

■ 評定河原事件(1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

宇部事件(1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

■ 益田事件(1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

■ 枝川事件(1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

■ 高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

■ 本郷村事件(1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

■ 下関事件(1949年8月20日)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

■ 台東会館事件(1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

■ 連島町事件(1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

■ 第二神戸事件(1950年11月20~27日)
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。

以後も、在日朝鮮人は、1951年の下里村役場集団恐喝事件、1952年の万来町事件など、生活保護費受給を求める騒乱事件を相次いで起こした。 外国人への生活保護は、1954年(昭和29年)5月に予算措置で、厚生省社会局長通知によって始まってしまい、それが現在まで続いている。 在日朝鮮人は暴力によって生活保護費受給を勝ち取った。 日本の政治や厚生労働省は、在日朝鮮人の暴力に屈し、憲法違反や生活保護法違反の外国人への生活保護が今現在も継続しているのだ。

【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

 

在日朝鮮・朝鮮人による事件史2

在日朝鮮・朝鮮人による事件史3